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大人になる素晴らしさのひとつは、自由の獲得だと思っていた。自分の生活を守るために自分で働き、自分の責任において自分の好きなことをやる。その代わり、何人たりともわたしの自由はおかせない。両親に手厚く守られたーつまり制約だらけだったー暮らしを送っていた10代のころは、固くそう思っていた。
自由を夢見て外国へ渡りひとり暮らし、帰国し仕事を始めた。自分で自分の責任をすべて取っているつもりで日々を進めるのは想像以上の解放だった。無茶をしても誰にも咎められないし、小さな秘密だって、もう、持たなくていい。
そんなふうに昼夜羽を伸ばし過ごすうちに、やがて、その自由は孤独ともセットだということに気づくようになる。「制約」や「束縛」に思えていたものは深い愛情のオプションでもあった。ひとり体調を壊したときなど、それがさらに、滲みる。ずっと望んでいた、誰も深く関わってこない「自由」を確立したはずが、それはすなわち、繋がりの薄さとも背中合わせだった。大事なもの。それはいつも見失うまで気づけない。
ある台風の日、そんな若い時代のことをふと、思い出した。風邪かなにかでひとり、こんな空をいつか、心細く眺めていたような記憶。自由の定義はそれからゆるやかに変化し続けている。自分で自分の責任を取るという基本姿勢はそのまま。でも、ひとりでは生きていけないことをつくづく思い知った若い日々はわたしにつながりの大切さを改めて教えてくれた。
ひとはひととつながり、支え、助け、愛し、守って暮らし生きていく。大切なひとができるとそれは弱さにもなる。それを失うことの想像はひとを守りに走らせることもある。でもそれは同時に、大きな喜びとも切り離せない。失うことが恐怖なくらいの大切な世界を、毎日噛み締めていく。「日常」の顔をした、奇跡みたいな日々を。
– Masako Nakagawa