Through the Lens - 31


なんてことのない一日を特別な日にする方法はひとによってたくさんあるでしょう。今日はもっともポピュラーでもっともお金のかからない行為のひとつを改めて勧めたいです。それは「長い散歩」。
朝、目が覚めます。ベッドでスマホを手に取れば情報の渦がごごごと押し寄せてくる。SNSには、国内外のニュースが溢れている。指先に次々と現れるポストはどれも主張が強い。今年の春にあなたが着るべき服、あなたが仕事を効率よく進めるためのツール。こういうのを取り入れたほうがいいのだろうか、わたしも。SNSをなんとか離れメールアプリをタップすると仕事の連絡の数々がメールボックスで待ち受けている。頭は既にフル回転を始めている。でもそういえばまだ、顔も洗っていないじゃないか。
自宅で仕事をするわたしは、そんな状態からなし崩しに仕事を始めてしまうのが常でした。でも、今日を特別にしたい。フレッシュにスタートしたい。
そこでその日は違う選択をしてみました。長く歩こう。そう、散歩です。目的地を決めず、ただ足の赴くままに歩いてみることにしたのです。タスクは山積みで今すぐ始めたいけれど、そこをぐっと堪えて。
スマホを置いていこうか迷う。けど、地図と時計を見るためと用途を限り持ち出すことにする。イヤホンは持っていくことにする。そして歩き始めました。
ぽよんと浮かんだ雲のかたちがかわいい。湿度の低い風が肌をそっと撫でていく。マフラーを改造した車のたてる低音と遠くを走るサイレンの音が混ざり空に吸い込まれていく。近頃見過ごしていたものたちが次々と目に飛び込んでくる。チワワのようだけど不思議に大きな犬を連れた女性と目が合う。おはようございます!かわいいですね!
足をひたすら前に出していくうち、思考の大波が静まっていることに気づきました。目覚めた直後、頭を占めていた多くのことがらが、ずいぶん遠くへと流れている。イヤホンを使う必要はなかった。まわりの音をちゃんと聴いていたかったから。
誰かのうちの塀のむこうに白い椿が笑っている。そうだ、椿って木へんに春と書くのだった。そんなこと考える余裕がなかったな、ちかごろ。
その後、わたしの一日は特別になりました。一見すると凡庸な日かもしれません。でもわたしにとっては明瞭度のあがった、とても特別な日になったのです。長い散歩のおかげで。