NEW YEAR STORE CLOSURE: DEC 26 - JAN 6. Choose your local currency to view our site in English
結婚をするために登記簿謄本を取り寄せた時に初めて、母方の祖父と私の血が繋がっていないことを知った。そのことを母に聞いた時、母がしまった!という顔をしたことを覚えている。
私の本当の祖父は原爆で亡くなった。私がその事実を知ったのは23歳の時である。
何だかおかしいなと薄々は感じていた。どうも姉は高校生の時から知っていたようだが、私には言わないように家族間で秘密にしていたのだろう。その事実がわかった時、色んなことが腑に落ちてスッキリもした。だが、あんなに怖がっていた原爆が自分の間近に迫ったようで恐ろしかった。
それから母は時折ポツポツと色々な事情を教えてくれたのだが、私はもう結婚して実家とは遠く離れた生活を送っており、話を聞いても他人事のような気持ちだった。相変わらず私にとって原爆は恐ろしく、それを思い起こさせる夏も嫌いだった。
30過ぎの頃、編み物を通じて知り合った年上の女性がいた。その頃、私は関東と関西を行ったり来たりしていた時期で、引越しする私と最後のお別れ会を開催してくれるとのことで、夕食を共にした。
ひょんなことから、おそらく私が原爆や祖父の話をしたのだと思う。彼女は興奮した顔で、それは当事者として世間に訴えるべき事柄ではないか、と言った。
当事者。私に取っては大きなインパクトのある言葉だった。逃げている私は悪なのか。いや、自分を守るためには別に問題ないのではないか。夏が来るたびに突きつけられる当事者という言葉。それを考え続けた20年だった気がする。
2024年に日本原水爆被害者団体協議会がノーベル平和賞を受賞した。その関連で日本でも色々な特集がテレビで組まれ、高校生平和大使や大学生などが一生懸命活動している場面をテレビでたまたま見た。もちろんその活動にも感銘を受けたが、キノコ雲の映像を自分が最後まで見られたことに驚いた。そうだ、年を取るということは鈍感になるということだった。私はもうそこまで怖がってはいないようだった。
現時点で、私は当事者として何も行動を起こせてはいないのだが、このエッセイでまた一つ壁を乗り越えられたような気がしている。正直、まだ夾竹桃もトンビも嫌いなのだが。
母が実の祖父のことを調べて回った時期があった。ある親戚が祖父の写真を持っており、私もそれを見るチャンスがあった。衝撃を覚えるほど祖父は母にそっくりだった。そしてもちろん私にも似ていた。それが当事者ということなんだと今は思っている。